世阿弥 (著), 水野 聡 (翻訳), PHP(出版)
室町時代の能の大成者世阿弥が亡父観阿弥の教えを基に書き残した日本最古の秘伝の能楽論です。 深い洞察力と高い理論性、稽古を通して確信を得た教訓の数々が、普遍的な学びの方法として私たちに示されています。この名著の内容をロゴで表現してみました。
されば古きを学び、新しきを愛でる場合も、この芸の本流をそれてはならない、ただ言葉賤しからず、姿幽玄なものを、本道を行く達人とは言うべきか。何よりもこの道を極めようとする物は他の芸能に心を移してはならない、ただ歌道のみは、この芸を飾る美となるもの、しかと身につけるべきである。
年来稽古の條々
七歳
心のままにやらせてみることである。
こと細かに、良い、悪いと教えないこと。
年来稽古の條々
十二、三歳
何をしても幽玄に映る。悪いところは隠れ、良い面はいよいよ花やかに見える。
しかしこの花はまことの花ではない。ただ、時分の花というべきだ。この頃の稽古は基本の技を大事に守るべきである。
年来稽古の條々
十七、八歳
この頃は重大な転換期にあたり、多くの稽古は望めない。まず声変わりにより第一の花を失う。姿も腰高になり、見た目の花も失ってしまう。意欲も消え失せる。観客も不自然に感じその気配を察して恥ずかしく思い、あれやこれやでへこたれてしまうものである。この時期の稽古法。たとえ人に指差され笑われようと相手にせず、普段の稽古を喉の無理ない調子で、朝夕発生練習を心がける。心中には願をかけ、一生の分かれ目はいここだと、死ぬま能を捨てない覚悟をかためるほかない。ここでやめてしまえば、能はそのまま止まってしまう。
年来稽古の條々
二十四、五歳
この時こそ初心のたまものと認識すべきなのに、あたかもげいを極めたように思い上がり、早くも見当違いの批評をしたり、名人ぶった芸をひけらかすなどなんともあさましい。たとえ、人に褒められて、名人に競い勝ったとしても、これは今を限りの珍しい花であることを悟り、いよいよ物真似を正しく習い、達人にこまかく指導を受けて、一層稽古にはげむべきである。この一時の花をまことの花と取り違う心こそ、真実の花をさらに遠ざけてしまうあり方なのだ。人によっては、この一時の花を最後に花が消え失せてしまう理を知らぬ者もいる、初心とは、このようなものなのである。
年来稽古の條々
三十四、五歳
この年代の能は盛りの絶頂にある。上がるのは三十四、五までのころ、下がるのは四十以降。くれぐれも言うが、この時天下の許しを得られていないなら、能を極めたと思ってはならない。ここでなお慎むことだ。この年代は過ぎし方を振り返り、また行く先の手立てをも予見できる自分である。ここで極めることができなければ、この先天下の許しを得ることは返す返すも難しいといえよう。
年来稽古の條々
四十四、五歳
この年代から能の方法は大きく変化する。たとえ天下の許しを得、能のすべてを会得したとしても、忘れてはならないのは、よい脇のシテ、後継者を育てておくことだ。能は下がらずとも、自然の摂理によりますます年老いて、身に咲く花も舞台の花も失せるもの。もしこの頃まで花が消えずに残ったならこれこそまことの花というべきだろう。 天下の許しを受けていたとしても、このような上手はことに己自身を知っているので、なおのこと脇のシテを用意しておくものだ。自身細かく技を使い、アラの見えるような能をするはずもない。このようにわが身を知る心こそ達人の心といえよう。
年来稽古の條々
五十有余
この頃からは、おおよそ しない という以外手立てはあるまい。父、観阿弥は、亡くなったその月、能を奉納したが、この時の申楽は事のほか花やかで、見物衆上下一同ほめたたえたものである。およそこの頃、演目はあらかた若手に譲ってしまい、自分はやさしい所を少な少なと色添えて演じただけだが、花はいや増しに見えたものである。これこそまことに得た花ゆえに、能に枝葉なく老い木になるまで、花は散りもせず残って咲いたのだ。これが目の当たりにした老骨に残る花の証であった。